2010年10月13日水曜日

長谷寺

本堂(礼堂)内部、右方が正堂










長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、道明上人が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、徳道上人が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。

長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰を広めた。

長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺であったが、平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となり、16世紀以降は興教大師覚鑁(かくばん)によって興され頼瑜僧正により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっている。天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来山を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により現在の真言宗豊山派が大成された。近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力を入れており、学問寺としての性格を強めている。

十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く、他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。




銅板法華説相図 - 「千仏多宝仏塔」とも称する。法華経の 見宝塔品(けんほうとうほん)で、釈迦が説法していたところ、地中から巨大な宝塔が出現した場面を表現したもの。縦83.3センチ、横75.0センチの鋳 銅の板に宝塔と諸仏が浮き彫り状に鋳出されている。千仏は、薄い銅板を型に当てて槌で叩き出して成形した、いわゆる押出仏を板面に貼っている。銅板の下部 には長文の銘が刻まれている。そこには「戌年」に「飛鳥浄御原で天下を治めた天皇」の病気平癒のため、僧・道明が作ったという意味のことが書かれている。 この戌年について、寺伝では天武天皇の朱鳥元年(686年)とするが、研究者の間では干支が一巡した文武天皇2年(698年)の作と見る意見が多い。(奈良国立博物館に寄託)

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