2011年12月2日金曜日

大神山神社(おおがみやまじんじゃ)



元は伯耆大山(別名 大神岳)の麓に鎮座し、その神を祀るものであった。伯耆大山は、平安時代には修験道場として著名な山となっていた。当社は智明権現と称し、地蔵菩薩を本地仏とした。『勝見名跡誌』には伯耆大山の智明大権現と因幡・鷲峰山の鷲岸大明神が仲が悪く戦をしたとの伝承が載っている。元弘3年(1333年)、隠岐を脱出した後醍醐天皇が当社で鎌倉幕府打倒の祈願を行った。

現在の奥宮は、山腹に大山山頂の遥拝所として設けられたものと伝えられる。その後、奥宮は冬季に祭祀が行えないため、山麓に冬宮(現在の本社)が設 けられ、夏季には奥宮、冬季には本社で祭祀を行うようになった。本社は当初は大山山麓にあったが、数度の遷座の後に明治初年に現在地に遷座した。

明治8年(1875年)、神仏分離によって大山寺を廃し(後に再興)、山腹の智明権現の仏塔を廃して奥宮とした。
HP http://www2.sanmedia.or.jp/oogamiyama/

2011年10月23日日曜日

京都学問所 下鴨神社

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20111019000060

鴨 長明(かも の ちょうめい、久寿2年(1155年) - 建保4年閏6月10日(1216年7月26日))は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての日本の歌人・随筆家である。俗名はかものながあきら。禰宜・鴨長継の次男。位階は従五位下。

賀茂御祖神社の神事を統率する鴨長継の次男として京都で生まれた。俊恵の門下に学び、歌人としても活躍した。望んでいた河合社(ただすのやしろ)の禰宜(ねぎ)の地位につくことが叶わず、神職としての出世の道を閉ざされた。後に出家して蓮胤(れんいん)を名乗ったが、一般には俗名を音読みした鴨長明(ちょうめい)として知られている。

出家の後、建暦2年(1212年)に成立した『方丈記』は和漢混淆文による文芸の祖、日本の三大随筆の一つとして名高い。他に同時期に書かれた歌論書の『無名抄』、説話の『発心集』(1216年以前)、歌集として『鴨長明集』(養和元年 1181年)といった作品がある。『千載和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に25首が入集している



http://everkyoto.web.fc2.com/report554.html



漢字と仮名の混ざった和漢混淆文で書かれたものとしては、最初の優れた文芸作品であり、詠嘆表現や対句表現を多用し、漢文の語法、歌語、仏教用語を織り交ぜる。慶滋保胤の『池亭記』を手本としていることが指摘されており、かつてはこれを根拠の一として偽書説も唱えられていた。隠棲文学の祖や、無常観 の文学とも言われ、乱世をいかに生きるかという自伝的な人生論ともされる。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかた は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」の書き出しで移り行くもののはかなさを語った後、同時代の災厄についての記述が続き、後半には自 らの草庵での生活が語られる。さらに末尾では草庵の生活に愛着を抱くことさえも悟りへの妨げとして否定する。

鴨長明
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287651

2011年10月9日日曜日

火祭薪能 大山阿夫利神社

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1110050019/



演目        
4日   能  「花月」        関根 知孝
         狂言 「附子」        山本 則俊
         仕舞 「道灌」        山階 彌右衛門
         能  「葵上」        観世 清和

5日  能  「嵐山」        観世 芳伸
          狂言 「土筆」        山本 東次郎
          仕舞 「道灌」        武田 志房
          能  「吉野静」       山階 彌右衛門

2011年10月8日土曜日

一人角力 大山祇神社

http://www.shimanami.or.jp/old-hp/oomisima/event/hitorizumou.html



毎年春の御田植祭(旧暦5月5日)と秋の抜穂祭(旧暦9月9日)において、大山祇神社の御淺敷殿と神饌田の間に設けられた土俵で行われる相撲神事で ある。「稲の精霊」と「一力山」による三本勝負で行われ、稲の精霊が2勝1敗で勝つ。「すもう」は一般に「相撲」の字を当てるが、ここでは、相撲を含めた 広義の力くらべである「角力」の文字を用いて一般の相撲とは違うこと、神との力くらべを表すとされる。


この神事については「三島大祝安積の松山寺社奉行所差出書」(宝永4年(1707年))に5月5日・9月9日に相撲を取らせたとあり、また大三島の瀬戸地区(現 今治市上浦町南東部)の向雲寺住職慈峯が享保20年(1735年)に「端午(5月5日)神事の節於宮浦邑の斎事有其内瀬戸の独り相撲と名乗る儀式あり役人は甘崎(瀬戸に隣接する地区)より出候得共瀬戸と名乗る」と記しており、古くからの神事であったことが察せられる。(貞治3年(1364年)の書物にも相撲奉納の記録が残る。)


春の御田植祭の時には、お田植神事の前に、そして秋の抜穂祭の時には、抜穂神事の後に行われており、稲の精霊が勝つことによって、春には豊作が約束され、秋には収穫を感謝するという神事である。全国的にも珍しく、昭和39年(1964年)に愛媛県の無形文化財の指定を受け、昭和52年(1977年)に県の無形民俗文化財に指定替えになる。


記録によると江戸時代は現在の今治市上浦町瀬戸の力士によって行われ、一番勝負であったとされる。また、明治以降の力士として、堀田金八、藤原岸 蔵、藤原初治、越智直治、松岡栄太郎、藤原忠八、元岡敬、藤原荒市などの氏名が記されており、いずれも10年20年と奉仕してきたようである。また、現在 使われている「一力山」という四股名は藤原百千氏の命名による。


昭和59年(1984年) を機に途切れていた一人角力は、大三島中学校教諭 越智秀雄のはたらきかけにより、平成2年の愛媛県地域生活文化研究発表会で大三島中学校生徒により披露されることとなり、以後同中学校において伝承文化発 表会で毎年熱演されている。平成6年~10年の間には、大三島中学校生徒会 会長・副会長による一人角力が実際の御田植祭と抜穂祭でも奉納された。現在、しまなみ海道開通(平成11年)を契機として、地元の若者の中から選ばれた力 士役・行司役の2人により成人の一人角力復活がなされている。
---Wiki---



山の神、海の神、戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた神社である。源氏、平家をはじめ多くの武将が武具を奉納し、武運長久を祈ったため、国宝、重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集まっている。近代においても日本の初代総理大臣の伊藤博文、旧帝国海軍連合艦隊司令長官・山本五十六をはじめ、現在でも海上自衛隊、海上保安庁の幹部などが参拝している。

この地に鎮座した由来として、大山祇神の子孫の乎千命(おちのみこと)がこの地に築いたとする説、伊豆国の三嶋大社(現、静岡県三島市)から分霊を招いたとする説、朝鮮半島から渡来した神であるとする説など諸説があるが、摂津国の三島江(現、大阪府高槻市)からこの地に移されたとするのが一般的である[要出典]。 いずれにしても、かなり古い時代から存在した神社であることは確かで、平安時代には朝廷から「日本総鎮守」の号を下賜されている。

また、日本各地に一万社余りある山祇神社、三島神社の総本社とされるが、一部の三島神社(主に東国)については静岡県の三嶋大社の分社もある。ま た、三嶋大社自体を大山祇神社の分社とする説や、逆に大山祇神社の方が三嶋大社の分社とする説があり、まったく別の神社とする説もある。

抜穂祭 大山祇神社

2011年10月1日土曜日

御湯神社1200年祭

http://www.nnn.co.jp/news/110924/20110924011.html




温泉神社(おんせんじんじゃ)という名前の神社は日本各地に存在する。その名前の通り、多くは温泉に関わる神社である。


日本は火山帯が縦横に走り、各地に温泉がある。温泉は、湯神・温泉神として古来より崇敬の対象となってきた。その神を祀るのが湯神社・温泉神社である。古代に発見された温泉の多くは、大己貴神(大国主)と少彦名神が発見したと伝えられ、温泉神社の祭神である温泉神にはこの二神が充てられていることが多い。


延喜式神名帳に記載されている神社は、「温泉神社」が3社、「温泉石神社」「湯泉神社」「湯神社」「御湯神社」「玉作湯神社」が各1社など、温泉に関する式内社は計10社となっている。
祭神
御井神(大国主命の御子)、大己貴命(大国主命の別名)、八上姫命(御井神の母神)、猿田彦命。

http://www.toritabi.net/iwai/jin.html




2011年9月30日金曜日

粟田神社 剣鉾

穂高神社 御船祭り






御船祭(御船神事例大祭)は、毎年9月27日です。
船型の山車に穂高人形を飾った大小5艘のお船が笛や太鼓の囃子(はやし)にのり、氏子衆によって神社へと曳き入れられます。勢揃いした御船のきらびやかな 様子は、歴史絵巻を見るかの様です。境内を練り、神前を曳き廻るうちには、お船が激しくぶつかりあい、その壮大な迫力に、時のたつのも忘れてしまいます。
御船祭りのお船は、子供船と大人船とがあり、なるの新木を用いて毎年組み立てられます。
男腹(おばら)、女腹(めばら)には着物が何十枚も掛けられ船上には毎年ことなった穂高人形が飾られます。着物の持ち主は、一年間健康で過ごせると言う信仰も息づいています。
お船の起源は穂高神社の祭神が安曇族の祖神(おやがみ)である海神をお祀りし古代北九州に本拠があった安曇族は海洋に親しみ海運を司っていたこと、大将軍 安曇比羅夫の船師を率いての百済教援、又氏族の朝廷での活躍などで、平安時代の標山室町時代の神座の山車等に原形を見ることができます。 公式HPより
http://www.hotakajinja.com/





本宮
・中殿:穂高見神(ほたかみのかみ)
・左殿:綿津見神(わたつみのかみ)
・右殿:瓊瓊杵神(ににぎのかみ)
・別宮:天照大御神
(あまてらすおおみかみ)
・若宮:安曇連比羅夫命
(あづみのむらじひらふのみこと)
・相殿:信濃中将
(御伽草子のものぐさ太郎)



奥宮
・穂高見神(ほたかみのかみ)

2011年9月5日月曜日

三輪素麺感謝祭 大神神社

http://www.miwasoumen.com/staffblog/2011/08/post-10.php


卜定祭(ぼくじょうさい)
2月5日、一年を通じて組合が最初に催す行事として大神神社で行われます。
かつては穀物の価格を決める伝統行事でしたが、現在では卸売商と組合で
設定された「高値」「中値」「安値」の3種類の価格の中からト定の神事によって
その年の相場が決定される儀式。古式に法って行われます。 大神神社の後、
元恵比須神社、恵比須神社と3つの神社を回り、神への祈りが慎ましやかに
繰り広げられます。三輪そうめんに携わる人々にとっては、一年の始まりを
告げる大切な神事なのです。


2011年9月2日金曜日

下鴨神社舞殿

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20110827000104/1

この日は平安雅楽会が非公開の秘儀と言われる御神楽を舞った。「人長(にんちょう)」と呼ばれる進行役が神を招いて遊んでもらうという構成。雨で時折中断 したが、観客はみやびな調べに浸った。仏教古典音楽の声明(しょうみょう)など、普段触れることの少ない芸能も披露された。

2011年8月30日火曜日

伊弉諾神宮




国生みの大業を果たされた伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)の二柱をお祀りする神社。古事記・日本書紀の神代巻に創祀の記載がある最古の神社で、淡路国一宮として古代から全国の掌敬を集めています。延喜式名神大社、三代実録神格一品、旧官幣大社で兵庫県唯一の「神官号」を宣下された神社です。

古事記・日本書紀には、国生みに始まるすべての神功を果たされたイザナギ尊が、御子神である天照大御神に国家統治の大業を委譲され、最初にお生みになられた淡路島の多賀の地に、「幽宮」を構えて余生を過ごされたと記されています。その御住居跡に御神陵が営まれ、そこに最古の神社として創始されたのが、伊弉諾神宮の起源です。地元では「いっくさん」と別称され日之少宮、淡路島神、多賀明神、津名明神と崇められています。

「陽の道しるべ」
伊弉諾神宮を中心にして、まるで計算されたように、東西南北には縁ある神社が配置されていることは実に不思議です。神宮の境内には、太陽の運行図として、このことを紹介する「陽の道しるべ」というモニュメントが建っています。神宮の真東には飛鳥藤原京、さらに伊勢皇大神宮(内宮)が位置しており、春分秋分には同緯度にある伊勢から太陽が昇り、対馬の海神(わたつみ)神社に沈みます。そして夏至には信濃の諏訪大社から出雲大社、冬至には熊野那智大社から高千穂神社へと太陽が運行します。

「夫婦楠」
境内には、イザナギ・イザナミの二神が宿る御神木として、夫婦円満、安産子授、縁結びなどの御利益があると信仰されている樹齢約900年の夫婦大楠があります。

祭り
また神宮では、年間を通して古式ゆかしいお祭りがとりおこなれ、今日も古くより伝わる淡路神楽の囃子が聴こえてきます。

1月15日 粥占祭
4月22日 春の例祭
6月1日 御田植祭
立春・立夏・立秋・立冬の日 湯立神楽祭