2011年10月8日土曜日

一人角力 大山祇神社

http://www.shimanami.or.jp/old-hp/oomisima/event/hitorizumou.html



毎年春の御田植祭(旧暦5月5日)と秋の抜穂祭(旧暦9月9日)において、大山祇神社の御淺敷殿と神饌田の間に設けられた土俵で行われる相撲神事で ある。「稲の精霊」と「一力山」による三本勝負で行われ、稲の精霊が2勝1敗で勝つ。「すもう」は一般に「相撲」の字を当てるが、ここでは、相撲を含めた 広義の力くらべである「角力」の文字を用いて一般の相撲とは違うこと、神との力くらべを表すとされる。


この神事については「三島大祝安積の松山寺社奉行所差出書」(宝永4年(1707年))に5月5日・9月9日に相撲を取らせたとあり、また大三島の瀬戸地区(現 今治市上浦町南東部)の向雲寺住職慈峯が享保20年(1735年)に「端午(5月5日)神事の節於宮浦邑の斎事有其内瀬戸の独り相撲と名乗る儀式あり役人は甘崎(瀬戸に隣接する地区)より出候得共瀬戸と名乗る」と記しており、古くからの神事であったことが察せられる。(貞治3年(1364年)の書物にも相撲奉納の記録が残る。)


春の御田植祭の時には、お田植神事の前に、そして秋の抜穂祭の時には、抜穂神事の後に行われており、稲の精霊が勝つことによって、春には豊作が約束され、秋には収穫を感謝するという神事である。全国的にも珍しく、昭和39年(1964年)に愛媛県の無形文化財の指定を受け、昭和52年(1977年)に県の無形民俗文化財に指定替えになる。


記録によると江戸時代は現在の今治市上浦町瀬戸の力士によって行われ、一番勝負であったとされる。また、明治以降の力士として、堀田金八、藤原岸 蔵、藤原初治、越智直治、松岡栄太郎、藤原忠八、元岡敬、藤原荒市などの氏名が記されており、いずれも10年20年と奉仕してきたようである。また、現在 使われている「一力山」という四股名は藤原百千氏の命名による。


昭和59年(1984年) を機に途切れていた一人角力は、大三島中学校教諭 越智秀雄のはたらきかけにより、平成2年の愛媛県地域生活文化研究発表会で大三島中学校生徒により披露されることとなり、以後同中学校において伝承文化発 表会で毎年熱演されている。平成6年~10年の間には、大三島中学校生徒会 会長・副会長による一人角力が実際の御田植祭と抜穂祭でも奉納された。現在、しまなみ海道開通(平成11年)を契機として、地元の若者の中から選ばれた力 士役・行司役の2人により成人の一人角力復活がなされている。
---Wiki---



山の神、海の神、戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた神社である。源氏、平家をはじめ多くの武将が武具を奉納し、武運長久を祈ったため、国宝、重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集まっている。近代においても日本の初代総理大臣の伊藤博文、旧帝国海軍連合艦隊司令長官・山本五十六をはじめ、現在でも海上自衛隊、海上保安庁の幹部などが参拝している。

この地に鎮座した由来として、大山祇神の子孫の乎千命(おちのみこと)がこの地に築いたとする説、伊豆国の三嶋大社(現、静岡県三島市)から分霊を招いたとする説、朝鮮半島から渡来した神であるとする説など諸説があるが、摂津国の三島江(現、大阪府高槻市)からこの地に移されたとするのが一般的である[要出典]。 いずれにしても、かなり古い時代から存在した神社であることは確かで、平安時代には朝廷から「日本総鎮守」の号を下賜されている。

また、日本各地に一万社余りある山祇神社、三島神社の総本社とされるが、一部の三島神社(主に東国)については静岡県の三嶋大社の分社もある。ま た、三嶋大社自体を大山祇神社の分社とする説や、逆に大山祇神社の方が三嶋大社の分社とする説があり、まったく別の神社とする説もある。

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